もう何年も前から自覚していたことがある。
それは、何とも言いようのない違和感である。
しかし、それがいわゆる発達障害とか、学習障害とか、そういうものにはおそらく当てはまらないだろう。
名前のない違和感に苛まれる、具体的に何がどう違和感があるのか、自分でうまく説明が出来ない。
けれど、それは決まって「人の中」にいるときに起こっていた。一人のときには無自覚だった。
そしてその違和感に、最近になってようやく輪郭が見えるようになってきた。
母上にこうこぼすことが何回かあった。
「私は花鳥風月の話なんかがしたいのに」
今日は満月だとか、花が咲いたとか、うぐいすが鳴いたとか、春一番が吹いたとか。
それでいて、私は夢や浪漫のある話もしたがる。最近でいうと、巨大な火球が落ちてきたことや、それが隕石だと判明したこと。
けれど、それがリアルの世界で叶うことは難しかった。
というのも、職場で為される雑談と呼ばれる当たり障りのない話が、私にとってはとてつもなく「当たり障りのある話」ばかりだったのだ。
職場の誰それの悪口、噂話、有名人の美醜の話、スキャンダルの話。さも当たり前のようにそこかしこで繰り出される話題は、私にとってノイズでしかなかった。中には明らかに私のどっぷりと浸かっているジャンルについて好き勝手に言われることもあり、暴れたくなったことも数回ある。実行しなかった私を褒めてあげたい。
そして、ここには凹凸のある人間は受け入れられないのだ。例えばLGBTとか、外国人だとか、障害持ちだとか。そんなものは無い前提で話が進む。いくら同じ職場だからといって、大して目の前の人の素性もわかってない場合だってあるだろうに。
ここで果たして私の近況を語れるだろうか?TOEICのキャンペーン当たったんですよ、受けてみるもんですね、最近はイギリスにも興味があって。
……きっと無理だ。花鳥風月の話すらほとんど話題に上がらないのに、そんなこと言えるわけがない。
私は凹凸の方の人間だったのだ。
当たり障ってばかりで、とてもじゃないけど嵌ることなんて出来ないのだ。
とはいえ、全く嵌らないのかといえば、例外もある。話の通じる人が、稀にいる。しかし、その一人を探し当てることがなかなか大変なのだ。
ネットの中では同じような仲間を見つけたり、同じような話題で盛り上がる人たちを見つけることが出来る。どうして身近にはこんなにいないのだろう。みんなどうして、そんなに当たり障りなく過ごせるのだろう。
最低限のダメージで済む方法は、極力一人でいることだ。余計な話をしないことだ。
「来る場所を間違えたのだろうか」そう思うことも何回もあった。でも、もし新しいところに行って、そこでも当たり障りだらけだったら?
日々、嵌らない場所で一人で過ごす。たとえ少なくても、近くにいなくても、自然に話のできる、心の通い会える人たちがいるならば、人は耐えられるのかな。正解はまだ出ない。